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巡回路
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明治以前の日本ならばともかく、欧米化のみならず、貪欲に世界中の料理を取り込みまくった昨今の日本の食卓における朝食の膳に、目玉焼きがあることは珍しくない。
何より、目玉焼きは手軽である。 フライパンを熱し、卵を落とし、3分も加熱すれば出来上がるのである。 こうした手軽さと、黄身と白身の織り成す見栄えがもたらす食卓の彩りのため、目玉焼きの評価は高まりさえすれ、下がることはなく、もはや日本の食卓になくてはならぬ存在であることは、頑迷な日本文化原理主義者でも認めざるをえないものである。 しかしながら、この目玉焼きが、多くの人々に諍いの原因をもたらしておることもまた、認めざるをえない事実である。 目玉焼きに何をかけるか、それは重大で深刻かつ、哲学的な問題である。 以前、さる喫茶店にてモーニングセットを楽しむ余の隣のテーブルに、背広姿の男二人が座ったことがあった。 フレックスタイムをフル活用する余とは異なり、折目のしっかりしたスーツと、糊の効いたワイシャツと、使い込まれた革製の鞄を手にしたその二人組は出社後、いずこかへと商談に向かう営業職の者と見受けられた。 JR京都駅に程近い立地からして、今から、大阪、あるいは東京へと向かうのであろうか。 二人組は、営業職らしい空気の読める人物だったようで、注文を聞きに来たウェイトレスが「ご注文は、お」までしゃべったところでモーニングセットをオーダーした。 こうした朝の時間帯に喫茶店に入り、モーニングセットを注文しないのは空気の読めぬ馬鹿者である。 なぜならば、間違いなく数が出ることが予想されるモーニングセットの素材は可能な限り作り置きが用意されるものであり、また、聡い店主であれば、客の影を見るやトースターに食パンを放り込むものであるからだ。 かような状態で、もし、空気の読めぬ馬鹿者が「カレー大盛りで」などと言い出せば、美しい作業サイクルが乱れてしまう。 店主はせっかく焼き始めた食パンのことを忘れてしまうかもしれぬし、あまつさえ、焦がしてしまうかもしれぬ。せっかく切りそろえようとしたトマトは適当に切ったところでまな板に放置されるかもしれぬし、冷蔵庫から取り出したハムのバットは、ラップを忘れたままハエにたかられることにもなりかねない。 もしそれで、焦がした食パンや瑞々しさを失ったトマトを諦めることのできる無欲な店主だったらまだしも、かまわず出してしまうような強欲な店主だったなら、後に来る客は、空気の読めぬ馬鹿者のせいで、手酷い被害を被ることになるのだ。 どうか、カレーは早いという俗説に惑わされず、朝はモーニングセットを頼んで欲しい。 余と諸君らの約束だ。 それはさておき、二人組は、なにやらビジネスの話をしながら待っていたが、モーニングセットが運ばれてくるなり妙な空気が二人の間に漂い始めた。 もしや、トーストの焼け具合が、あからさまに片方が失敗だったのだろうか、とチラリと横目で見るが、特にそのような様子はない。 余はトマトの薄皮が、歯の圧力に負けてぷつりと切れる瞬間を楽しみながらさらに観察を続けることにした。 「XXさんは、いつもソースですよね」 「ああ、そうだ。ソースだ。普通はソースをかけるものだ」 やや若い方の男の言葉に、年上らしい男答えた。 目玉焼きを前にしてソースがどうこうという話が出れば、それはもう目玉焼きに何をかけるかという議論の始まりに他ならない。 しかも、この年上の男は、「普通は」などという余計な言葉さえ使っているではないか。 ビジネスの話は、もはや遥かイスカンダルよりも遠い場所に追いやられ、二人組は坂道を転がり落ちるように、目玉焼きに何をかけるかという議論に突入していった。 余が奥歯でシャキシャキと千切りキャベツを噛み締めながら聞いていたところ、どうやら、若い方の男はしょうゆ派であるらしい。 ソースは素材の味を殺すから駄目だ、黄身とソースの混ざった味わいを貴様は知っているのか、といった定番の応酬に始まり、ついには、みのもんたやあるある大辞典まで動員しての一大決戦である。 こいつは面白くなってきた、と余はトーストの耳だけをかじりとりながらレモンティーを口に含んだ。 やがて、若い男は年上の男の、年上の男は若い男の目玉焼き論を突き崩すに至る神の一手を持たないことをお互いに認識した。 このような場合、往々にして多数決が用いられる。 日本人の特徴なのか、あるいは、民主主義の原則を尊ぶがゆえなのかはわからぬが、いずれにせよ、二人組は、店内のソース/しょうゆ比率をもって、この議論を決着させることにしたらしい。 ソース派、しょうゆ派は、目玉焼き界における二大派閥であることは疑う余地もない。 かつて、めざましテレビにて、インターネット投票と街頭アンケートによってソース派、しょうゆ派の優劣を定めようという野心的な取り組みが為されたことがあった。 結果はソース派優勢であったが、圧倒的というほどでもなかった。 また、少数意見も多少は出ていたが大勢に影響があるほどでもなかったように記憶しておる。 いずれにせよ、そのとき、店内では、なんたる偶然か、ソース派しょうゆ派が拮抗した状態であったらしい。 らしいというのは、余は、そんなもの確認しなかったからである。 二人組が見たところ、同数のように見えたのだろうということである。 だいたい、ソースがかかっているのかしょうゆがかかっているのか、いくら喫茶店はさほど広くないからといって、ちょっと眺めただけで瞬時に判断のつくようなものではないことは、少し考えればわかりそうなものであるが、そのとき二人組冷静さを失っていたのであろう。 さて、では、すぐ隣の余はどうだったのか。 実はまだ目玉焼きに手をつけていなかったのである。 拮抗状態であるという結論が出たときには、うすっぺらいハムを箸遣いの妙技で四つ折とし、無理矢理歯ごたえを楽しんでいたところであった。 こうなると、なんとなく居心地が悪い。 余は、実際にはソース派であるが、ここで平常通りソースをかければ、年上の男を利することになる。 常識的には、名前も知らぬ男に何を遠慮することもないとは思うのであるが、朝のひと時をエキサイティングにしてくれた二人組には等しく感謝の念を抱いておる。 それをあえて年上の男一人だけを利してこの場を去るのは、なんだか不公平なように思えてならぬ。 とはいえ、ここで突然、タバスコだの砂糖だのをかけて食うのはいかにも奇をてらい過ぎであるし、不自然だ。 第一、「この野郎、聞いていやがったな」という要らぬ恨みを買うことにもなり、また、朝っぱらから目玉焼きで議論していた自分達の姿が克明に観察されていたことを知った二人は、激しく動揺してしまい、これから行く営業先で思わぬ失態を演じてしまうかもしれぬ。 どうやら唐突に、余のネタ力が求められる状況になってしまったらしい。 ソース派にもしょうゆ派にも組せず、かといって、不自然でなく、この目玉焼きを食べてしまわねばならぬ。 とはいえ、あまり悩んでおる時間はない。 悩む=先ほどまでのやり取りを聞いていた、という推理ができない人間はそもそも空気が読めずにカレー大盛りを注文していたに違いないからである。 そして余は決断した。 つとめて無表情に、目玉焼きの端をつまむや、すっかり耳をかじりとったトーストに乗せ、一口にガブリとやったのである。 そうとも余は今この瞬間だけパズー派だ。 文句があるかこの野郎。 そのまま、レモンティーの残りを飲み干して勘定に向かう余を、果たして二人組がどのように見ていたのか知るよしもない。 願わくば、宮崎映画のファンだったのだな、ということで納得していて欲しいものだ。 余は意味も無く「僕のは親方のよりすごいんだ」というMAD音声を脳内再生しながら、仮の職場へと向かった。 SPQEにより承認 書記:総統
by soutou_d
| 2006-11-08 15:31
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